19日未明、読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が98歳で亡くなりました。
読売新聞によれば肺炎のため都内の病院で死去。葬儀は近親者のみで営まれ、後日お別れの会が開かれる予定とのことです。[渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆が死去、98歳|讀賣新聞オンライン]
野球ファンにとっては「ナベツネ」として知られ、時として物議を醸す強烈な発言で話題を呼んだ人物でした。
スポーツ界での発言 – 失言と先見性
特にスポーツ界ではその強権的な姿勢がしばしば批判の的になっていました。
例えば、2004年の球界再編問題での「たかが選手が」発言は当時のメディアで暴言として大きく報じられ、後に本人も文芸春秋で「失言」と認めています。
発言直後に「たかが選手だって立派な選手もいる」とフォローを試みましたが、すでに手遅れでしたね。
一方で彼の発言には鋭い指摘も含まれていました。
Jリーグ創設期に「一人の独裁者が、空疎で抽象的な理念だけを抱えてはスポーツは育たない」と批判した言葉は、今日多くのJクラブが債務超過や経営難に直面している現実を見ると先見の明があったと言えます。
ビジネスとしての持続性を軽視した理想論への警鐘だったんでしょう。
選手評価においても、時として厳しい物言いながら本質を見抜く目を持っていました。
イチローについて「野球選手としてだけじゃなく人間としても素晴らしい。32歳の若者に80歳の老人が教えられるよ」と評価。対照的に中村紀洋獲得を見送った際は「子供が髪形をまねしたらどうするんだ」と選手の社会的影響力を指摘しました。
表現は強烈でしたがプロ野球選手の責任を問う本質的な発言だと思います。
「巨人は1番じゃないといけない。2位じゃいけない」という有名な発言も、実は民主党政権下での事業仕分けを皮肉ったものでした。
蓮舫議員の「なぜ2位ではいけないのでしょうか」という発言への返しとして放たれた言葉で、表面的には傲慢に聞こえる発言の中に時代を捉えたユーモアが潜んでいたのです。
実務的な保守主義
渡辺氏の真価は政治や歴史認識の分野にありました。
1926年に東京府で生まれ8歳で父を亡くした渡辺氏は、学生時代から反軍国主義的な少年として知られました。
戦後は共産党に入党しますが、カスリーン台風での党の対応に疑問を持ち離党。この経験が後の現実的な判断の基礎となったのかもしれません。
➡「天皇制を潰して、共和国にしようと思った」知られざる“渡辺恒雄の共産党時代”|文春オンライン
2005年の「検証・戦争責任」では満州事変を「侵略」と定義する一方で原爆投下については日本側の責任も指摘。この連載は日本語だけでなく英語版と中国語版でも発行され、国際社会に向けた日本の立場を発信する試みとなりました。
そして、靖国神社問題でも独自の立場を示しました。
「頑迷な宮司によって犠牲となった戦没者の霊とA級戦犯が合祀された」と指摘。国の最高権力者の参拝が近隣国との外交摩擦を生む原因になっていると批判し、イデオロギーより現実的な外交関係を重視する姿勢を貫きました。
渡辺氏の実務的で柔軟な保守主義の姿勢、そして個人の人間性と主体性を重視する思想には私も共感を覚えます。
戦略的な対米関係と読売新聞
読売中興の祖・正力松太郎氏はCIAのコードネーム「PODAM」として記録され原子力政策推進の工作員として活動していたことが文書で確認されています。
しかし、正力氏も単なる「アメリカの犬」ではありませんでした。自身の野望実現のために米国との関係を戦略的に利用した「したたかな実務家」だったのです。
渡辺氏はこの正力路線をより洗練された形に発展させました。
「アメリカのスパイ」と揶揄されることもありましたが、それは実態を見誤った評価だと私は思います。
親米路線を取ったのは日本の国益を考えた上での選択であり、必要な時にはアメリカの意向に反する決定も断行。より主体的な立場から日米関係を構築していきました。
さいごに
最後まで社説に目を通し続けた98歳の主筆。
スポーツ界での強権的な手法で多くの批判を浴びましたが、その背後には日本の将来を見据えた深い思索があり、私生活では深い愛情を持った人物でもありました。
➡【追悼】渡辺恒雄さん 妻への愛と後悔を語った手記「クモ膜下出血に襲われたあの日から…篤子よ、私はいまも罪の意識にさいなまれている」|婦人公論.jp
鋭い先見性と現場での強引さ、そして意外なチャーミングさを併せ持つ複雑な人物だったというのがより正確な評価かもしれません。
戦後日本の激動の時代を生き抜いた渡辺氏の人生は、いつか大河ドラマのような作品として描かれる日が来るかもしれませんね。
ご冥福をお祈りいたします。
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